イエスは自分が神だと語ったか?
アーマンによれば答えは否。福音書のテキスト研究から出てきた問題提起として、この問題は一番重要かもしれない。
How Jesus Became God: The Exaltation of a Jewish Preacher from Galilee
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同性という問題
イエス様は性を超越した神ではなく、人間の男だった。
男が別の男を神と崇め、跪く、というのは、たとえ相手が神の子でも、意外な心理的障壁があるように思う。
この点、女の方が男神に対する心理的抵抗は少ないだろう。
ましてイエス様がアメリカの宗教団体が作った聖書の映画に出てくる二枚目の白人みたいな顔のお兄さんを想像すると、そのお兄さんに「主よ」と言って跪くのは日本男児として国辱的な悔しさを伴うというか。
外タレ好きの女子の方がクリスチャンになりやすいってことはないだろうか。
イエス様が男だか女だかよくわからない一種異様な超人間だったという触れ込みだった方が、男は心理的には信仰を持ちやすかったように思う。広隆寺の弥勒菩薩像などは典型だが、仏像は一種男女の性を超越した感じの中性的なものが多く、天にまします我らの「父」やイエスという「男」よりも、ユニセックスな存在な方が拝みやすい気がするのは自分だけだろうか。
機会不均等
ある美人はある不美人よりも異性の愛情を手に入れやすく、結果、異性間の愛情関係で満足し、神の愛を求めるという発想すら持たなかった。この世での愛情を手に入れられなった不美人の方は愛に飢え、他に選択肢がないので、神の愛を求めるしかなく、結果クリスチャンになった。この場合、美人は天国へ入れず、不美人が天国に入るとしたら、この世に置かれた立ち位置が神に向かいやすいかどうかという点であまりにも不平等過ぎはしないか。
この世が来世で救われるかどうかを決めるテスト期間だとしたら、生まれつき美人で健康で金持ちで頭脳明晰であることは、生まれつき不美人で病弱で貧乏で愚鈍で来世での救いを求めるしかない者よりも、この天国入りのテストですごいハンディを背負わされていることになる。
たかだかこの世での数十年の安逸と引き換えになるのは永遠の幸福なのだから、出発点でこういうハンディがあるのは端的に不平等だと思う。
顔の問題
現実の肉体を持っていたイエス様には当然、顔があった。
聖書にはイエス様の顔がどんな顔をしていたか、美男だったか醜男だったか、威厳のある感じだったか、神々しかったか、具体的な記述があったかどうも覚えがない。
イエスの伝記映画、例えば「奇跡の丘」「キリスト最後の誘惑」「パッション」あと「ジーザスクライストスーパースター」など観ていて、演者が自分の持つイエス様のイメージに遠い近いはあるにせよ、人の顔というものは、どうしても好き嫌い、好感を持つ顔とそうでない顔というものがあり、現実のイエス様の顔もまた、自分が一目見て好ましく思う顔だったかどうか分からないということ、つまり自分にそういう生理的反応を生じさせる具体的な顔をイエス様が持っていたということ自体、考えるとなんだか複雑な気分になる。
イエス様は自分の顔を自分でデザインしたのだろうか、それとも成り行き任せだったのだろうか。全能の神に成り行き任せということがありうるのかどうか分からないが。(人間の顔の美醜だって神の介入があるのか、ただの遺伝的偶然なのか。それともこの世の事象に偶然を考えること自体が神への冒涜か。)もしかしたら、善男善女にだけは神々しく、美しく見えるような仕掛けがしてあるお顔だったということもあり得る。
映画に登場したイエスで一番神々しさを感じたのは「ベンハー」のイエスだったが、その理由として、イエス様の顔が画面に映らなかったという理由が大きい。
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信じる者は救われる
信じる者は救われるという時、神への信仰心を持つことで、すでに救われている、信仰心によってこの世の苦難にも耐える力を与えられている、というのは分かる。しかし信じない者は死後の魂が救われないという教えはただの脅しにしか聞こえず反発心しか起こらない。
少なくとも死後に救われることを願って信仰を持つことが、死後はないと断じて潔く、あるいは諦念を持って死ぬよりも倫理的に優れているとは全然思えない。カルト宗教にハマり、教主を生き神様だと信じたり、占いや何かのご利益を信じることに道徳的善があるとも思えない。
そもそも何かの存在の有無を信じるというのは自由意志に基づいた選択的な行為とも言えない。
人は何かについて、信じられるか信じられないか意志的に決められず、何かを信じるという心性は往々にしてただの騙されやすさだったりする。