証拠としての目撃者

本書でアーマンは福音書の歴史的事実性を云々する際にイエスの伝道の目撃者の証言というものにどれくらい権威を持たせられるかを問題としており、人から人に口頭によって伝えられる伝聞の類いがいかに変質し歪められ、あてにならないかを説いているけれども、そもそも説話の大元となるキリスト教誕生の瞬間、ペテロやパウロらが本当に復活したイエスに会ったのではなかったのなら、彼らがなぜイエスの復活を信じることができたのかという疑問を抜きに、その後の伝言ゲームの変質を問題にしてもあまり意味がないように思うのだが。
また伝聞を伝える人の記憶力がいかにあてにならないとしても、聖書を書かせているのは万能の神ということなのだから、その前提さえ受け入れてしまえば、どんな内容の文書であれ、神の霊感の助けによって、一字一句、神の意図する通りの文書を書かせることができる。相手がどんな奇跡も起こせる万能の神である以上、アーマンの記憶力批判によって聖書の権威に傷がつくことはない。人間の記憶力だけでは難しいことも神の介入による「奇跡が起こった」と言えば事足りる。
(あるいは聖書に限らず、人類の歴史全体が神による虚構でも構わないのではないか。人間の一人一人に聖書や教会という神のメッセージが存在している世界の夢を見させ、一人一がどういう選択をしてどういう人生を送るか、虚構内選択ゲームのように勝者と敗者を決めれば良い。)

いつものアーマンの批判、万能の神の霊感で書かれたはずの聖書に、なぜ間違い、矛盾、偽書などが含まれているのか?の方が聖書批判として有効だろう。

反対にボウカムの本は目撃者証言こそが福音書の歴史的事実性を確立すると説いているらしく、読んでみたいが値段が高く、図書館にも入荷していないので先送り中。

イエスとその目撃者たち: 目撃者証言としての福音

イエスとその目撃者たち: 目撃者証言としての福音