綱島梁川と驚異の哲学
以前に「悲哀の高調」というエッセイを読んで、「寂寞感からの神の存在証明」的な理屈が面白かったことを書いたのだが、「病輭録」に「驚異と宗教」という小見出しのついた一文があり、タイトルに惹かれて読んでみると、独歩とかなり近い感性で驚異の哲学を語っていることを発見した。梁川のこのエッセイは明治三十八年(1905)に書かれており、「牛肉と馬鈴薯」(1901)より後、「岡本の手帳」(1906)より前になり、梁川と独歩の影響関係はどうなのか、お互いを意識していたのかどうか知りたいところだが、本エッセイで梁川は独歩について一言も触れていない。梁川は宗教と驚異の関わりについて、もとはカーライルの言っていることだと書いているので、独歩と同じく梁川もカーライル経由で驚異の哲学に至ったのかもしれない。たとえば次のような文章を読めば、梁川の思想が借り物ではなく、〈我〉の存在の驚異に触れた人間の言葉であることがわかる。
因果の関係より遡りたるにもあらず、完全という観念よりして実在そのものを、演繹し出したるにもあらず、道徳上の要求より構え出だしたるにもあらず、理想即ち実在の理路より辿り著きたるにもあらず。釈迦の意識を模倣し、基督の信仰に移傍したるにもあらず。顧みれば、唯だこれ我が我みづからに対する一念已みがたき驚異の情の、独立に産み出し迫り出したる偉大なる事実にあらずや。そは直識也、自證也、面接也。見よ「ここに」「ここに」と叫ばざるを得ざる端的の事実也。
「端的の事実」に驚くことが驚異の哲学の根源となる体験である。引用部分を読むと、梁川は神学的論法に通じていることがわかり、独歩よりも理論家肌っぽい。今回は図書館本でなく古本で購入したので、これから梁川のエッセイを少しづつ読んでいきたい。
明治文学全集〈46〉新島襄・植村正久・清沢満之・綱島梁川集 (1977年)
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イエスの言い間違い?
イエスは彼らに言われた 、 「よく聞いておくがよい 。世が改まって 、人の子がその栄光の座につく時には 、わたしに従ってきたあなたがたもまた 、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう」マタイ19:28 口語訳
十二使徒が来たるこの世の天国のリーダーになると。でもユダは地獄堕ちだろうから、十二の位の椅子は一つ空いてしまう。ここでのイエスはユダの裏切りを勘定に入れてない印象だが、神にそんな「言い間違い」を想定できるだろうか?
(この世が改まった後もイスラエルの十二部族というようなローカルな括り方が必要なのかという疑問もある。)
Bible navi で該当箇所の解説を見たら完全にスルーでズッコケる。
屋根の上のバイオリン弾き
Lord who made the lion and the lamb,
You decreed I should be what I am.
Would it spoil some vast eternal plan?
If I were a wealthy man.
昔、テレビで放映してるのを一度観たきりだが、こんな歌詞だったと知り、再見したくなった。
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父から子へ
「イエスはガリラヤのナザレから出てきて 、ヨルダン川で 、ヨハネからバプテスマをお受けになった 。そして 、水の中から上がられるとすぐ 、天が裂けて 、聖霊がはとのように自分に下って来るのを 、ごらんになった 。すると天から声があった 、 「あなたはわたしの愛する子 、わたしの心にかなう者である 」(マルコ1:10-11)
三位一体の父なる神から子なるキリストへの語りかけは、まるでイエス自身、自分が何者かわかっていないかのように聞こえる。父と子は一体なのに、「わたしの心にかなう」というのも不可解だし、父の心をイエスが知らないかのように語りかける理由がわからない。父と子の関係のこういう不可解さはこの箇所に限ったことではなく、ヨハネ福音書の世の初めから存在していたキリストという考えと齟齬をきたしていると思う。
証拠としての目撃者
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また伝聞を伝える人の記憶力がいかにあてにならないとしても、聖書を書かせているのは万能の神ということなのだから、その前提さえ受け入れてしまえば、どんな内容の文書であれ、神の霊感の助けによって、一字一句、神の意図する通りの文書を書かせることができる。相手がどんな奇跡も起こせる万能の神である以上、アーマンの記憶力批判によって聖書の権威に傷がつくことはない。人間の記憶力だけでは難しいことも神の介入による「奇跡が起こった」と言えば事足りる。
(あるいは聖書に限らず、人類の歴史全体が神による虚構でも構わないのではないか。人間の一人一人に聖書や教会という神のメッセージが存在している世界の夢を見させ、一人一がどういう選択をしてどういう人生を送るか、虚構内選択ゲームのように勝者と敗者を決めれば良い。)
いつものアーマンの批判、万能の神の霊感で書かれたはずの聖書に、なぜ間違い、矛盾、偽書などが含まれているのか?の方が聖書批判として有効だろう。
反対にボウカムの本は目撃者証言こそが福音書の歴史的事実性を確立すると説いているらしく、読んでみたいが値段が高く、図書館にも入荷していないので先送り中。
- 作者: リチャードボウカム,Richard Bauckham,浅野淳博
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悪霊どもでさえも
「あなたは 、神はただひとりであると信じているのか 。それは結構である 。悪霊どもでさえ 、信じておののいている 。」(ヤコブの手紙2.19)
サタン、アダムは神の存在を知っていたが神に背いた。
我々はそもそも神が存在するかどうか知っていない。
状況証拠的には神の存在は分が悪い。
神はなぜ隠れたる神である必要があるのか。
サタンやアダムに知られていたように我々に存在を知らしめてもいいではないか。
神の存在が疑う余地がなくても神に背く者はいる。
神に従う前にまず見えない神の存在を信じるという迂遠なやり方は必要ない。
私が神だ、これが法だ、従うかどうかは好きにしろ、で事足りる。
道徳的に良い行いをする以外に存在の不確かなものに信仰心を持たねばならぬ理由がわからない。
少なくとも悪霊やアダムは神の存在を疑う必要がなかった分、我々より恵まれていたと言わねばなるまい。
神の業の尻拭い
認知症の高齢者。人間は神から理性を与えられ、物事の善悪を判断できる道徳的存在にもなり、この世界での役割が与えられるという。認知症老人のこの世での役割は何だろう。神はこの世で役割を終えた人間をいつでも召し上げることができるはずなのにそうせず、他人にオムツの世話をされる状態になるまで生かしておられる。この世でのプレイヤーとして、「人生すごろく」をとうに上がっているはずの人間を無為なまま生かし続ける神の意図を推察できるだろうか。しかもそういう老人が日増しに増える一方だ。まさか認知症老人の介護をする人間の魂を陶冶するために認知症を増やしてるとでも?
認知症が悪魔の仕業だというなら敵は分かっているから戦いやすい。認知症老人の介護をする人間は何と戦っているのか。(同じことは障害をもって生まれてくる子供にもいえる。)