悲哀・寂寞感からの論証?

図書館で借りてきた明治文学全集の宗教著述家の巻から、綱島梁川(全く未知の書き手だ)の「悲哀の高調」というエッセイを読む。ここで梁川が書いている悲哀感は、独歩の言う、特に理由もなく、黄昏時に感じられるという胸つぶれるような寂寞感とも通じていると思った。

ただに歓楽つきて哀情の生ずるのみならず、高歌盛舞の歌吹海の中にありてさえ、吾人は時として、中心無限の寂寞に泣くことあり。吾人は時として爛漫の花に泣き、また得意満盈(まんえい)の幸運にさえ泣くなり。而してこの悲哀は、時としては、俗にいう「嬉し涙」のたぐいとは異なりて、人生そのものの如く深きことあり。思うにかくの如き意識は、必ずしも厭世家ならざる人の度々経験する事実なるべし。
この悲哀の意識は何物ぞ、極めて漠然として、而もさしも深く、切に、人心を動かす、この悲哀の意識は何物ぞ。こは勿論種々の解釈を容るべきものなるべし、ここには、そを一種の宗教的衝動より来るものと見て解釈を下さんとす、予は少くとも、ここに有力の一解あることを信ずるものなり。(「悲哀の高調」より原文旧仮名)

このような理由なき悲哀感・寂寞感と神が存在することの可能性を結びつけるところが面白い。人間はこの世のものでは満たされない心の空隙をうまれながらに持っていて、この心の隙間を埋められるのは神しかいない、という理屈はよく見かけるものだけれど、悲哀や寂寞感という情緒、もののあわれ感というような日本的な情緒にも神なしでは満たされることのない人間の根本的な孤独が現れているという指摘は新鮮だった。宗教をいくら理性で否定しても、こういう感情が厳として存在することは否定できないし、人を信仰に導くのはわりとこういう感情かもしれない。


明治文學全集 46 新島襄・植村正久・清澤満之・綱島梁川集

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