独歩とカーライル

独歩はカーライルに思想的な影響を受けたということだが、カーライルについて何も知らないので、とりあえず下記の本を図書館で借りてきた。(代表作「衣服哲学」は図書館で所蔵していない。カーライル、全く人気がないようだ。)

カーライル (コンパクト評伝シリーズ)

カーライル (コンパクト評伝シリーズ)

まずは「衣服哲学」解説の章を拾い読みしていると、何箇所かで独歩と関係がありそうな記述があった。

なんじ愚かなトイフェルスドレックよ、あらゆる年齢の男女が両性が、いかに筆舌に尽くせぬ利益を衣服からえてきたか考えてもみよ。たとえば、なんじ自身がこの惑星への水っぽい、ふやけた、涎をたらした新参者で、乳母の腕の中で泣いたり吐いたりして、おしゃぶりを吸いながらこの上なくぽかんとした様子で世界をじっと覗きこんでいたとき、もし毛布や涎掛け、その他名もない衣服がなかったなら、なんじはどうなっていただろうか。なんじ自身と人類にとって大いなる恐慌であったろう。(p40)

ここで言われている衣服を、習慣によって身につける日常的世界観の意味だと考えると、いかに衣服を脱ぎ、世界があることの驚異を取り戻すことができるかが独歩の課題だったと言えないだろうか。
あるいはカーライルにおける英雄と信仰について。

カーライルにとっては、英雄とは神の意志を人間に説明する人、聖職者の伝統的な役割を果たす人であった。聖職者自身は、もはやこの役割には用いられない。なぜならカーライルは正統的キリスト教信仰を決して取り戻せなかったし、彼にとって現存するすべての教会と宗教とは、みずからまじめに信じてもいない信仰を公言し、かつては根拠のあるものだったが現在では抜け殻にすぎない象徴を崇拝する、空疎な言辞と大規模な偽善的組織とみえたからである。(p45)

独歩自身が教会についてどういう意見を持っていたかわからないが、上記の部分は「悪魔」の浅海謙輔を思い出させるし、尊敬するカーライルの正統的キリスト教とのズレが、独歩のキリスト教との微妙な関わり方に影響を与えたのかもしれない。