独歩の「苦悶の叫」

「苦悶の叫」は独歩の思想が表明されている評論、というか独白文である。
元は「欺かざるの記」の日記の一部から抜き書きされたもののようで、独歩自身断っているようにやや乱文で読みにくいところもあるが、「牛肉と馬鈴薯」「岡本の手帳」「悪魔」三作それぞれにそのまま引用、もしくは発展されることになる思想や表現が見られ、本作も驚異の哲学シリーズの一作として欠かすことのできない一品だろう。
本作は小説的なひねりがない分、信仰を求めて得られない独歩の苦悩がストレートに綴られている。
例えば以下のような部分。

吾ただ信仰を絶叫す。されど、信仰の来るべき筈なし。
信仰は中心自然に燃え上がる神秘の天火なり。弱き人、勇者となり、愚かなる人、世の智者を憐れむの人となる。是れ実に神が尤も純粋なる霊に賜う唯一の賜なり。
彼の頭直ちにこの青空を仰ぎ、彼の心直ちにこの天地にふれ、彼の情直ちにこの人生に動く。
信仰の光始めて電光の如く落下す。中なる霊の火猛然として燃え上がる。
(原文旧仮名)

この火を噴くような信仰に憧れても、独歩に信仰は訪れない。なぜなら

吾は只だ空言する也。只だ口まねする也。而して漠。日より日、その動物的生命を駆るのみ。自然の児、天来の児に非ずして、先入、習慣、惰力の児のみ。

使徒信条や主の祈りを唱えても、信じてはいないただの空言、ただ言われるままに口マネしているということだろうか。自然の児、天来の児とは世間の価値観を相手に惰性で生きる状態から脱した、この奇跡の天地に自分が存在するという奇跡の感覚を持っている者の意で、独歩も瞬間的にはこの世界、この自分の存在の驚異に驚くものの、その感覚は長くは続かない恨みがある。

故に吾に信仰の来るべき筈なし。吾は只だ盲動するのみ。疑問もなく。直感もなし。
而も吾信仰を絶叫す、何故ぞや。一点の霊光吾を射ればなり。

この「一点の霊光」こそ驚異の感覚のはずだが、独歩は存在の不思議を痛感することで「先入、習慣、惰力」の馴致から束の間脱することができたものの、そういった実存的目覚めから神への信仰に至るには何かが欠けていたように思う。(そもそも人に信仰をもたらすもの、懐疑から確信へと、最後の一線を越えさせるものが何なのか、説明できる人はいないだろう。)

独歩の煩悶を読んでいると、神のいないパンセ、信仰を持てなかったチェスタトンを読んでいるような感じがする。それは痛ましいのだが、キリスト教に関心はあれど非信者の自分には無限の共感を誘うところでもある。

ともあれ、独歩の驚異の哲学と信仰との関係(もしくは驚異を通して信仰を目指すことの限界)について、この「苦悶の叫」はよくその消息を伝えていると思う。