岡本の手帳 2

岡本の手帳いわく、

神の人は言ふも畏し、ポーロやルーテルや、皆な「不思議」にめさめてこの幽遠宏大なる宇宙に於ける人の命運につき心をののき感あふれしなり。その火の如き信仰は止むことを得ずして起りし結果なり。

ルターの場合は友人アレキシスの雷死に、死それ自体の不思議を観たと解釈できるとして、パウロの回心は岡本の説く驚異の哲学とは違うと思うのだが、それらしい記述がパウロ書簡のどこかにあるのだろうか。
「神の人は言ふも畏し」とは、畏れ多くもキリストもこの「不思議」に目覚めた、という意味だと思うが、イエスの教えに存在の不思議や驚異に関することはあっただろうか。

存在の不思議や驚異の認識が独歩をキリスト教に引き寄せているのは間違いないだろうが、そういった一種の哲学的煩悶への答えとして、キリスト教という選択が正しいのか、そもそもキリスト教本来の教えは独歩的な煩悶を問題にしていないのではないかという疑問も湧く(CSルイスはクリスチャンの出発点に、まず罪の自覚を置いていたと記憶する。)独歩は洗礼を受けたが信者として全うできなかったふうなのもその辺に事情があるのかもしれない。

(昔読んだ、倉橋由美子キリスト教批判小説「城の中の城」の中で、チェスタトンが「正統とは何か」で言ってることはほぼ同意するが、そこで言われていることに賛同するためにキリスト教は必要ないと書いていたのを思い出す。)