イエス復活の状況証拠?

「捏造された聖書」のアーマンによる「ペテロ、パウロマグダラのマリア」を読んでいる。内容は新約その他の資料から導き出せるこれら三人の歴史的事実と伝説を推理するというもの。基本的に非信者の立場から書かれてるので、ここまでは歴史的な事実だと推測でき、これ以上はわからない、という線引きがハッキリしていて小気味良い。むしろ確実に歴史的な事実だと言えるものだけで考えたほうが、合理的な説明だけでは割り切れない部分があぶり出されてくるような面白みがある。

例えばイエス復活の出来事に関しては、福音書の記事は全て、福音書記者自身の直接的な目撃談ではなく、イエスの死後数十年経ってから福音書記者が伝承に基づいて書いているぶん、信ぴょう性が損なわれてるとも言える。

一方、パウロキリスト教の迫害者からキリスト教の布教者へ180度転換をもたらしたというイエスと出会った体験は、その体験を記録したパウロ本人の書簡があり、パウロがそういう体験を持ったいうこと自体は特に疑う理由がない。最初の福音書が書かれるまでに4〜50年という、様々な伝説が混じりこむには充分なスパンがあるのに対して、パウロの回心体験はイエス死後2、3年後のことと推察されている。という事は、最初の福音書が書かれるまでの数十年の間にイエス復活の伝承やパウロの神学が徐々に形成されたわけではなく、イエスの死後間もないうちに、イエス復活の信仰が生まれていたということがわかる。この事は福音書が書かれた時期が遅いことを理由に福音書の信憑性を問題視することに対する反証になり得るのではないか。

福音書の復活記事の是非はともかく、パウロの回心体験は歴史的事実と言ってよく、イエス復活を信じるかどうかとは別に、パウロに回心を促す何かがあった、仮に全てがパウロの幻想だったとしても、そういう心理的体験があったということは本当だろうという。

少なくとも福音書の復活伝承よりも、復活したイエスのビジョンを見たというパウロの証言の方が、幽霊の目撃談と同じ程度には受け入れやすいが、ゴリゴリの律法主義者だったパウロを異教徒への福音を説くキリスト信者に変貌させたものが何かという事は、信仰の外にいる者にはやや不可解な謎として残ることになる。

これと似た話として、ペテロの変貌も上げられる。イエス生存中に保身に走っていたペテロがイエス死後には殉教も辞さない信者に変わった。イエスの復活については証明も否定もできないが、ペテロが生まれ変わる原因になるほどの心理的事件が起こった事は疑いえないという理屈。

つまるところ、これらの回心を神の奇跡に触れたからと捉えるか、何らかの心理学的な事柄と解釈するか、蓋然性の問題ということだろうか。