神が神に祈るとは

三位一体のうちの子の人格が、三位一体のうちの父なる人格に、何か要求を祈る。
できればこの苦杯を取り除いて欲しい、でも究極的には父の御心のままにしてくださればいいんです。

これが唯一神の中でやり取りされている心理的ドラマだとすると、一種の自作自演のような振る舞いだが、三位一体という存在形式を持たない我々には、ここで何が起こっているのか想像することもできない。

しかしこのような祈りの仕草を見ると、三位一体の位格のうち、少なくとも父と子は別人格のような印象を持つ。(人間の罪を贖うために、人間への愛ゆえに、キリストはこの世に人間として生まれ死なれたと言われるが、この人間の贖罪を計画したのは、子なる神ではなく、父なる神ではないだろうか。子なる神は父なる神の「御心に従った」ということは、子なる神は父なる神とは別個の人格を持つということではないだろうか。)

人格が分かれている唯一神というのは、祈る側からしてみると、祈りの対象にブレが生じ、ちょっと拝みにくい気がするのだがそんなことはないのかな。