信じる者は救われる

信じない者、キリストを受け入れない者は救われないといわれる。
キリストを受け入れるには心の扉を開けさえすればよい。
内側から扉の鍵を閉めているのは神ではなくあなたの側だと。

しかしノックの音が聞こえないのに扉を開けようとは誰も思わないだろう。
ノックの音が聞こえない、ということ自体が罪、ということなのかもしれないが。

信じる信じないとか抜きで、まずは全ての人間を救ってもらうわけにはいかないのだろうか。
全員復活、全員天国入り。
いや、キリストのお陰ですでに全員救われている、福音とはその知らせだとも言われるけれど、
その福音が成立するためにはキリストへの信仰と洗礼が不可欠だと条件がつく。

神の存在に対する信仰を必要とせず、神を直接知っていたのに、サタンやアダムは神に背を向けた。
天国にいても神に背く者はいるのだ。
ならばいったんみんな天国に入れてもらって、神と直接対面してから、神につくか、背くかを決めてもいいのでは。

少なくともサタンやアダムは、決定的な選択をする前に、神が存在するという信仰が必要とされていなかった分、神は死んだと言われる時代に生きる我々よりも、ずっと好条件だったと言えないか。

(信仰を持っている人は心理的にはすでにじゅうぶん救われているとも言える。この世で本当に救いが必要なのは、信仰を持てない「心の貧しい人」、どこにも救いが見出せず絶望して自殺するような人だろう。しかし、キリスト教の理論上は、前者が天国に入り、後者の人は地獄行きなのだ。この世で破滅した唯物論者はあの世でも救いがない。)

(あるいは信仰が持てずに死んだ人間も地獄堕ちとまでは行かず、煉獄で修行して、やがては天国に入れてもらえるのだろうか。しかしその場合、死後の霊魂の存在や神の存在が明らかになった時点での回心になり、それでいいのであれば、間違っている可能性のある信仰など無理して持たずに、死後、真実が明らかになってから神に従えばいいのではないか。)

そもそも、神は、なぜ隠れたる神である必要があるのだろう。